featured A japanese architect who is working all over the world, JAPAN

Kotaro HORIUCHI featured French web site A japanese architect who is working all over the world published on 7th January 2009.

[published contents in Japanese]
「これまでを振り返っても、成功したとは思えない。
まだまだ、もっと面白いことを追求していきたい。
ひとつずつ達成感を得て、さらにその次を求めて、
その達成感を得て、またその次を求める繰り返しです」
建築家 堀内功太郎

パリ、サン・ルイ島。
お隣のシテ島とともにセーヌの中洲に浮かぶこの閑静な小島は、芸能人や高級官僚が多く在住する、パリ屈指の高級住宅地として知られる。今回は、若干30歳にしてこのサン・ルイ島内のアパルトマンに住み、世界でも十指に入る建築家ドミニク・ペロー氏の設計事務所(DOMINIQUE PERRAULT ARCHITECTURE)に勤める建築家、堀内功太郎氏を訪ねた。
堀内氏が建築の道に進むことになったのは、父親の一言がきっかけだった。
「大学を受験するとき、父親に『学校の名前で受験はするな。将来、何をやりたいかをしっかり考えろ。それが一生の仕事になるんだぞ』と言われていました。それで、将来、仕事にするには何が面白いのか考えたときに、僕はたまたま理工系に進んでいて、芸術の分野とか、何かを作ることが好きだったので、なんとなく建築に進んだんです」
なんとなく、とは言うものの、「建築家として生きていくと決めたからには挫折したくない」という思いもあって、大学では熱心に建築を学んだ。また、「建築は空間体験だから、本では語れない」という考えから、学生時代は建築を巡る旅を繰り返したそうだ。
「僕がなぜ建築を見る旅に行こうと思ったのかと言うと、そのプロセスの部分を知りたかったからなんです。完成した建物の良いところだけを紹介している本を見てもプロセスを感じることはできないし、参考にはならないんですよ。だから、自分が良いなと思っている建築家がいるのであれば、そのプロセスを味わうべきだと思って、学生時代からヨーロッパはほとんどの国に行きました。小さい建築でも面白いものがいっぱいあるので、辺鄙な場所にあっても車を借りて周っていましたね。予定が立てられないので、夜通し運転して、朝着いたら建物の目の前で1、2時間仮眠して、その後にホテルに行ったり、また大移動したりしていました」
ヨーロッパ中の建築を見て周ったなかで、どの建築が印象に残っていますか? そう質問すると、面白い答えが返ってきた。
「どの建築家からもたいした感動を受けないんですよ。どれも、へ~で終わってしまうんですよね。もちろん、いろいろ教科書や雑誌で見ているし、すごいんだろうなと思って見に行くんですけど、なるほどねっていう空間体験をした後、長所と短所をぱっと見て、それを自分に活かそうと考えてしまうので、見方がほかの人と違うのかもしれないですね」
偉大な建築家たちの作品を見ても感動しないという言葉を聞いて、違和感を抱く人がいるかもしれない。確かに、言葉の表面的な意味だけを捉えれば若者のビッグマウスにも思える。しかし、少し視点を変えれば、この言葉が彼の意識の高さからくるものであるとわかるだろう。堀内氏の言葉を聞いて、僕は、かつて、元サッカー日本代表の中田英寿が「目標とする選手はいない」と話していたことを思い出した。どちらにも共通しているのは、誰の真似をするのでもなく、あらゆることから貪欲に良いところを吸収し、少しでも自分を高めたいという強い思いである。
学生時代に建築を巡る旅を続けるうちに、堀内氏は建築家としての自分の将来について、「遊牧民的生活」を思い描くようになった。
「いろんな本を読んで、ある建築に興味を引かれたなら、それだけで納得して終わっちゃダメだと思ったんです。自分でプロセスを感じるために、海外で自分が気に入っている事務所を転々としながら働いて、自分のなかで収まったら次の事務所に行って、また次に、という形で遊牧民的に建築家生活を送っていきたいなと思いました」
この生活が実現できたなら、日本で建築を学ぶ若者にとって、まさにひとつの理想形だろう。逆にいえば、夢のような話過ぎて、現実感がないと思ってしまうかもしれない。しかし、堀内氏は揺るぎない向上心と実力で、その夢の橋を渡る切符を手にした。
好機が訪れたのは大学院の2年生のとき。大学、大学院で自分が何かを設計するとき、ひたすら参考資料をめくっていて気になる存在だったのが、オランダの建築事務所、メカノー(Mecanoo)が手がけた作品だった。就職活動の時期になり、堀内氏はなんとかメカノーで働けないかと思い始める。そんなとき、あるコンペの話が舞い込んだ。
「メカノーのボスが、たまたまロッテルダム・ビエンナーレのキュレーターになって、各国にいろいろ募集をかけるなかで日本にも募集があったんです。それで、日本国内でコンペをすることになって、そのコンペで勝った人がオランダのロッテルダムの展覧会に出展できるという話を聞いて、これはもう就職活動なんかしている場合じゃないと、とりあえずそれに打ち込みました。そのときはモビリティというのがテーマで、移動するものからの風景っていうタイトルで、それを建築としてどう捕らえるかというのが課題。日本側では東京リングプロジェクトが大野秀敏先生のもと発足され、そこでのテーマは山手線からのビューでした。僕は、秋葉原と神田の間を選定して、山手線からの可視領域に関するプロジェクトを出しました。それがコンペで勝って、ロッテルダムで出展することができたんです」
このときの堀内氏にとって、プロジェクトの出展は目的ではなく、メカノーと接触するための手段。このチャンスを逃したら次はない。ロッテルダムに渡ると、展覧会にきていたメカノーのボスに直接話しかけた。すると、話は急展開を迎えた。
「僕がこの作品を作った人間なんですけど、メカノーに興味を持っていて、ずっとメカノーで働きたいと思っていました』と話をしたら、名刺をくれたんです。それで履歴書を送ったらその2日後には面接になって、そのときにはもう就労ビザの話も出て、すぐに働くことになりました」
メカノーがどんなところか知らない人のために説明すると、堀内氏が就職を決めた2003年当時、世界各国から90人弱の建築家が集い、同時進行で40のプロジェクトを動かす、世界でも有数の建築事務所である。堀内氏は若干23歳にして、このメカノー事務所で初の日本人建築家として勤務することになった。当時、彼はまだ大学院の2年生だったが、扱いは正社員。世界中から1日200通以上の履歴書が送られてくるという環境で、まさに大抜擢を受けての採用だった。メカノーでの仕事はその後の堀内氏に大きな影響を与えた。
「日本と比べると仕事に対するスタンスが全然違う。まず、上下関係がないんですよ。日本って言われたことをやるだけじゃないですか。でも僕の場合、当時まだ23、24歳だけど、今の事務所にないものが欲しいから雇われているわけですよね。だから、今の僕ぐらいの年の人やもっと年上の人と一緒にプロジェクトをやっていても、斬新なフレッシュなアイデアが欲しいからって、けっこうプロジェクトを任されるんですよ。それが自分のなかで最初の戸惑いでしたね。働く時間も、日本だったら24時間営業みたいに働きますよね。でもメカノーはぴたっと18時に終わって、じゃあみんなで飲みに行こうとか、誰かが辞めるからとか、誰かの出産祝いとか、昼間に何かしらのパーティーを事務所のなかでやったりして、そのなかで仕事をしている。見るもの全てが本当に刺激的でした」
それまで日本の大学、大学院で普通に学んでいた学生が、オランダの建築事務所でいきなり正社員として勤務する。この環境を考えたとき、気になるのは言葉の問題だ。堀内氏は海外旅行にはなれていたが、オランダ語はもちろん、英語が特に堪能だったわけでもなかったと言う。
「メカノーは世界中の人が集まっていたので英語ベースだったけど、やっぱり日本で勉強してきた英語は使い物になりませんでした。オランダに行って2、3週間目には働き始めたんですが、最初の3ヶ月は言葉もあんまりわからなくて、ミーティングではdo you understand? と繰り返し聞かれましたよ。話はわかっても発言ができないんですよね。でも、自分の専門知識に関しては日本で十分得てきている自信はあったし、自分はプロセスの部分を知りたいだけだから言語はどうでもいいと思ったんです。言語は、パソコンと同じで自分の専門の能力を発揮するためのひとつのツールでしかない。CADのソフトもいろいろあるんですけど、事務所や国によって違うし、同じソフトでもショートカットは各言語で変わってくるんですよね。そういうのを全部憶えるのは無理。だからオランダに行って、オランダ語だろうが英語だろうが、自分の拙い英語で始めて、そのうち憶えれば良いと思っていました」
この大胆な割り切りは結果的に正しかった。もともと、メカノーには建築の才能を買われたのであって、英語が拙いのは先方も承知の上。それに、言葉は勉強と環境である程度は上達する。
実際、3ヶ月が過ぎると仕事で使う英語にも慣れ、同時に次々とプロジェクトを任された。メキシコシティの図書館、フランクフルトにある欧州連合中央銀行などの設計コンペに参加したほか、オランダ・スキポールのゴルフホテルオランダ・アルメレの集合住宅の基本設計など、働いて1年もしないうちに7つの案件を手がけたのである。言葉と仕事に格闘するハードながらも充実した日々は、あっと言う間に過ぎた。
しかし、あるとき日本の大学院から「そろそろ帰ってこないと卒業させない」という連絡が入る。堀内氏は悩んだ末に、メカノーを辞めて帰国し、大学院を卒業する道を選んだ。
「ずっと大学院を辞めようか迷っていたんですけど、せっかく親に大学院まで行かせてもらったので卒業したほうがいいかなと思ったんです。でも、卒業するために日本に帰ろうと思ったら、みんなにもったいないと言われました。特にオランダで学生をやっている人は、自分たちがアプライを出しても返事が来ないとか、断られたとか、面接まで行ってもダメだったとか、そういう人がいっぱいいたので、メカノーで働くことは大学より価値があることだから辞めるなよ、もったいないってすごく言われました。でも、僕はもったいないっていうことはないと思ったんですよね。一度メカノーで働いて、ボスもほかの人もみんな知り合いだから、もしもう一度働きたいと思ったら、大学院を卒業してからまた働きたいと言えば良いし、違うところに行きたいと思うかもしれないし、そのときの自分の気分次第かなと。特に、最初は1年おきに事務所を変えて、遊牧民的な生活をしてみたいと思っていたので、メカノーに執着する必要性はないと思いました」メカノーでの世界を視野に捉えた1年は、堀内氏に自信を与えた。同時に、もっと違うものを見てみたい、もっと面白いことをしてみたいという好奇心に火をつけた。勢いある才能は過去を振り返らない。結局、彼は大学院を卒業後、自身の予想通り、今度は他の事務所で働いてみたいという思いがわき、国を移り、メカノーに戻ることはなかった。
そして、ここから、堀内氏が目指した「遊牧民的建築家生活」が始まった―。

メカノーでの勤務を終え、大学院を修了した堀内氏が次に目指したのは、オーストリア。ウィーンのポペルカ・ポドゥシュカ建築設計事務所(PPAG ARCHITEKTEN)で働き始めることになった。 2004年のことである。オーストリアの公用語はドイツ語。全く未知の言語だったが、かまわず飛び込んだ。
「どこにしても、言語は現地に行ってから憶えればいいやと思っていたので、そのときも何語でもかまわないと思っていました。仕事を探してポートフォリオを出すときも世界中の自分が気に入っている建築事務所に出すんです。それで書類審査が通れば現地に面接に行く。このときも何件か面接に行ったんですけど、やっぱりPPAGが面白そうだなと思ったので、そこに決めました」
10人程で構成される建築事務所PPAGは、ウィーン中心地にある文化複合施設(MQ : MuseumsQuartier Wien)などを手がけている。
PPAGでの日々は、やはりドイツ語との格闘から始まった。言葉がわからなければ、会議の内容も図面の内容もクライアントや構造家、施工会社との打ち合わせも理解できないどころか、同僚やボスたちとのコミュニケーションもとれない。しかし、堀内氏はオランダ時代と同じように、語学に対して変に力むことなく、 “ひとつのツールとしての言語”を毎日の仕事のなかで習得していった。
「CADの仕様もミーティングも全部ドイツ語で、最初はもちろん言葉がわからないから英語で仕事を始めました。でも、相手もあまり英語がわからないから、じゃあ、みんなで週1回、英語のレッスンをしようということになって、先生を呼んで英語のレッスンをすることになって(笑)。でも、最終的にはドイツ語も憶えましたよ」
理解できない言葉が飛び交う環境で仕事をするのは、かなりのストレスだろうし、簡単なことではない。だが、前にも書いたようにメカノーでもPPAGでも求められるのは建築家としての技量やアイデアで、語学力は二の次。メカノー時代と同様、PPAGでも働き始めて1年弱の間に消防署や集合住宅の設計コンペに参加したほか、ミュージアムの中庭や住宅の基本設計など7つの案件を任された。
堀内氏は、ドイツ語を学びながらも、どんどん案件を任されるウィーンでの生活を「いろいろ新しい発見があった」と振り返る。そうして1年ほど働いた後、PPAGを退職した。もともと”遊牧民的建築家生活”を送るために 1年前後で辞めようと思っていた堀内氏は、あっさりと事務所を辞めたのである。
堀内氏は、PPAGに就職を決めたときと同じように手広く就職活動を始めた。
「日本に帰る前に世界中の建築事務所に作品を送って、面接のアポが始まる前にPPRGを辞めました。その後、フランクフルト、ロンドン、マドリッド、リスボン、またマドリッドに戻って、バルセロナ、もう一回ロンドン、ニューヨークと面接のために渡り歩きましたね」
結果、フランス人建築家ドミニク・ペローが運営する設計事務所 “DOMINIQUE PERRAULT ARCHITECTURE”で働くことに決めた。なぜ、ペローの設計事務所を選んだのか。
「マドリッドの某事務所とペロー事務所ですごく迷ったんです。どちらかと言ったらスペインに行きたかったんですけど、諸事情で二ヶ月日本にいたかったのですが、待ってくれなくて、その時期に働き始めて欲しいと言われてしまって。でもペロー事務所は、好きなときで良いという優しい回答だったんです。」
ドミニク・ペローはパリの13区にあるフランス国立図書館の設計者として知られる世界的に有名な建築家で、冒頭にも書いたようにペローの設計事務所(DOMINIQUE PERRAULT ARCHITECTURE)は欧州を中心に大規模な案件を手がける世界屈指のメジャーな建築事務所である。2005年6月、この設計事務所で働き始めたとき、堀内氏がまず感じたのはドミニク・ペローの仕事のクオリティの高さだった。
「もともと事務所が図書館の脇にある建物だったんですよ。それで、図書館がすぐ近くだったんで、暇な昼休みとか、ひとりでボーっとしたいときしたいときによく図書館の中庭に行って寝そべってボーっとしていたんですけど、あのL字で囲まれた空間は、見れば見るほど素晴らしさが伝わってくる。ファサードのディテールとか、細部まで本当によくできてるんですよね」
このとき感じた現在の彼のボス、ドミニク・ペローに対する尊敬の念は、年月を重ねるごとに深まっていった。そして、堀内氏の心境に変化が生じた。
「以前は、いろんなところでいろんなことを学びたいから転々としたいと思っていた。最初にペロー事務所に入ったときも、転々とすることを考えていたんですよ。 1年後にはまた別の事務所に行って、あと2つか3つの事務所を経験したら日本に帰ろうかなと思っていた。でも、今はほかに行く気がなくなりました」それはなぜか。「ボスの仕事に対するモチベーションと姿勢はすごい。
僕のモチベーション下がって弛んでいるときに、一番、気が引き締められるのはボスの姿を見たときなんです。ボスの仕事に対する姿勢は素晴らしいと思うし、本当に尊敬しています。もうほかの事務所に移ろうと思わないのは、彼の存在があるからです」
堀内氏が尊敬して止まないドミニク・ペローとはどういう人物なのだろうか。
「ペローはとにかくお茶目な人ですね。イメージとはだいぶ違うんですけど、いつもお茶目だなと感じます。今日もペローとミーティングして、すごくまじめなことを話そうとしているんだけど、なぜか、かわいいんですよ(笑)」
一応、書き加えておくが、ドミニク・ペローは55歳の男性である。 25歳も年下の部下にかわいいと言われるキャラクターは、仕事に対するストイックな姿勢と相まって、人望につながっているのだろう。尊敬するペローのもとで働いたこの4年弱で、設計コンペと基本設計、実施設計を含めると、堀内氏は15の案件を手がけてきた。
例えば、現在、堀内氏が基本設計と実施設計に携わっているのは、イタリア・ナポリの中央駅だ(2011年に竣工予定)。想像して欲しい。イタリア・ナポリに行ったことがある日本人は多いだろうし、これからもたくさんの日本人が足を運ぶだろう。そのナポリの街の新しい顔となる中央駅を設計したのは日本人の堀内氏なのである。これだけでも単純に「すごい!」と思うが、堀内氏はさらに、 2005年と2008年、自分が案を出した設計コンペで優勝し、この2案件でも基本設計と建築の実施を担当することになった。 2005年にコンペで勝ったのは、つい先月に竣工した、ミラノの国際見本市会場フィエラに建つ総工費ウン十億円、 3つ星と4つ星のホテルが独特の配置で、傾いて並ぶツインタワーホテル。 そして、2008年に勝ったのは、イタリア・サン・ペレグリーノに建設されるスパ施設のコンペ。これは総工費ウン百億円、周辺の商業施設、オフィス、住宅、庭園など個々の建築の設計デザインをした超大規模な案件だ。ちなみに、事の成り行きでイタリアの案件に多く関わることになったため、今は事務所の公用語であるフランス語と案件のためのイタリア語、両方で仕事をしているという。
「2005年に働き始めた頃はコンクールのエキップ(チーム)に配属されて、半年の間に10本ぐらい出したんです。そのなかのミラノのホテルのコンペで勝ったから、コンクールのエキップから抜けて、ホテルを建てるエキップに変わりました。1年も経たないうちにそのイタリア人で構成されるエキップに移ったので、せっかくフランス語を憶えたのに、エキップ内のミーティングの言語や普段の会話がイタリア語になったんですよ。またゼロからスタート。結局、やりとりしながらイタリア語を覚えるのに半年ぐらいかかりました。かなり大変でしたね」
メカノー時代に身につけた英語、PPAG時代に学んだドイツ語、ペロー事務所で使うフランス語とイタリア語、そして日本語。若かりし頃の堀内氏が望んだ「遊牧民的」な生活は、彼に国際経験、広い視野に加え、言語という強力な武器をもたらした。今はまだペロー事務所の所員ではなるが、今、まさにこの瞬間、堀内氏は5ヶ国語を操り、世界の舞台で、世界の名だたる建築家と肩を並べ、世界のあちこちに建築物という大きな足跡を残しているのである。
気になるのは今後だが、「僕の最後の師匠になるのはペローだと思っています」という彼は今、“これから”に向けて着々と動き始めている。
「ペロー事務所を辞めるときは、完全に独立するときですね。実は今、ペロー事務所と並行して個人でも設計事務所をやって、仕事を請け負っているんですよ。最近では、日本の企業の依頼で葬儀場を設計しました。あと、この夏竣工予定なのは、パリのオペラ界隈に建てているチーズのレストランとショップ、ギャラリーです。これは堀内功太郎建築設計事務所として、世の中に最初に登場するという意味で、処女作なんです。今まで担当してきた案件に比べると小さなプロジェクトかもしれないですが、非常に楽しみですね。独立後もパリ事務所を残して、拠点を日本とパリに置いて行ったりきたりの生活になると思います。今まで働いてきた事務所がどうやって大きくなっていったかというと、コンクールで認められて、大きなプロジェクトを獲得することからスタートしているんですよね。
それが僕に可能かわからないけど、僕も世界中でコンペに参加して、彼らと同じ土俵で戦いたいと思っています。まだまだやりたいこともあるし、常に面白いことを追求していきたいですね」
恥ずかしい話だが、建築の知識などまるでない僕は、世界を舞台に活躍している日本人建築家といえば思い浮かぶのは安藤忠雄ぐらいだ。若手でもすごい人がいるのかもしれないが、残念ながら全く知らない。
でも、この名前と存在は頭に刻み付けておこうと思う。
堀内功太郎。
いずれ日本を代表する建築家になる。
そんな静かな自信と内に秘めたパワーを感じさせる男だった。

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